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「男は稼ぐべき」が崩壊した日——ヘルニアで座れなくなった30代男性の価値観の話

目次

病院の待合室で気づいたこと

整形外科の待合室で何度も同じ光景を見てきた。スマートフォンを握りしめた男たちが、無言で椅子に座っている。診察を待つ間も、脚を組み替えたり、腰を浮かせたり、何度も姿勢を変えている。

苦しそうな顔をしながらも、みんなどこか「これは一時的だ」という顔をしている。仕事があるから。家族がいるから。男だから。

その「男だから」という圧力が、どれだけ重いものなのか。病院に来てからはじめてわかった。

僕は大手企業で10年、人事部や新規事業担当部署で働いてきた。人材採用から育成、配置転換まで。毎年何百人もの男女を見てきた。そして感じていたのは、男性たちが背負っている「当たり前」の重さだ。

高卒で就職して、大卒で就職して、定年まで働く。その道筋は、もう社会に深く刻み込まれている。育休制度が浸透してきた今でさえ、男性が育休を取るのは1~2ヶ月。多くの企業では、それを超えるとキャリアに傷がつくと思われている。

「男は稼ぐべき」という価値観は、教科書に書かれているわけではない。家庭から始まり、学校から、会社から、社会全体から——無数のシグナルとして送られてくる。気づかないうちに、体と心に刻み込まれていく。

「気持ち」では止められない体の声

僕自身、その刷り込みを否定していなかった。むしろ、それで走ってきた。

30代。年収も肩書きも、ようやく人並みになった。もう一段上に行けるかもしれない。そういう時期だった。

腰痛は、最初は単なる過労だと思った。整体に行けば治る。湿布を貼れば治る。そう思っていた。

しかし坐骨神経痛は容赦がない。椅子に30分座るのが限界。通勤電車では足の痛みで立っていられない。寝ても痛い。朝起きるだけで、その日の生活計画が頭に浮かぶ。「今日は何分なら座れるだろうか」と。

医者には「安静が一番」と言われた。でも、仕事はある。デスクワークが中心の人事職。座らないわけにはいかない。

頑張ればなんとかなる。そう思って、痛み止めを飲んで、出勤した。翌日、足の痛みが倍になる。さらに頑張る。もう一度、悪化する。

この「気持ちで何とかする」という枠組みが、ヘルニアには全く通用しなかった。神経は無視できない。毛細血管の炎症は、気合では治らない。

悪化は止まらなかった。ついに医者から「これ以上働き続けると、取り返しのつかないことになります」と宣告を受け、休職に入った。

休職中も回復せず、休職期間が満了し、退職になった。その結果が、これまでの人生の「当たり前」を全て崩した。

「男は稼ぐべき」の価値観が、一気に意味をなくした日

休職満了で退職が決まった日のことは、覚えている。

家族に伝えた。「わかった。体を治そう」と言ってくれた。シンプルで、冷静で、当たり前のような返事だった。

でも、内心では全く別のことを考えていた。

30代で、年収は中程度。貯金は限られている。家族も支えてくれているが、それがいつまで続けられるか。来月は? 半年後は? 1年後は?

医者から「3ヶ月は安静が必要」と言われた。その後、リハビリで3ヶ月。つまり、最低6ヶ月は満足に働けない。

傷病手当金の制度がある。ありがたいことに。それで何ヶ月か、赤字ギリギリの生活ができる。だが、それは一時的な措置だ。期限が来たら、社会に戻らなければいけない。

その時に「僕は何ができるのか」という問いが、毎日、何度も何度も、頭をもたげた。

これまでの「男は稼ぐべき」という価値観は、その時点で、僕にとって意味をなくしていた。稼ぎたくても、体が稼がせてくれない。では、何のために生きるのか。それが問題になった。

他の男性たちが何を感じているのか、そろそろ知りたくなった。病院の待合室で見た、あの苦しそうな顔をしている男たちは、この「価値観の崩壊」に、どう向き合っているのか。

ヘルニアの時代に「別の入口」が開いた

だが、ここからが興味深い。

今は、座れなくても別の道がある。これが、本当に大事な気づきだった。

音声入力がある。仰向けで天井を見ながら、スマートフォンに話しかけるだけで、それが文章になる。喋った言葉が、自動で文字に変換される時代だ。

生成AIもある。言いたいことの断片を、「こんな感じで書いて」と指示すると、それが整理されて、形になる。完璧とは言わないが、ゼロから書くのではなく、一を二にするのは確実に楽になった。

5年前だったら「座れない=デスクワークができない=仕事ができない=終わり」という方程式が成り立っていた。実際、僕の親世代では、そういう人たちが多い。体が動かなくなったら、仕事は終わり。人生も、ある意味では終わり。

しかし今は違う。工夫次第で「別の入口」が作れる。

もちろん、全てが魔法のように解決するわけではない。痛みが強い日は、音声入力だって難しい。「何も考えたくない」という日も続く。寝返りを打つだけで、足がしびれる。そういう日々が、今も半年以上続いている。

だけど、ゼロとイチの差は大きい。

少しでも前に進める道具が増えたこと。座っていなくても、何かを形にできる可能性が生まれたこと。それは、確実に「生きる道」を作った。

「稼ぐ」から「役に立つ」へ——価値観の再定義

「男は稼ぐべき」が崩壊した後に、何が残るのか。

それは「自分は何のために生きるのか」という、より根本的な問いだった。

稼ぐためではなく、誰かの役に立つために。その「誰か」を同じように困っている人に設定し直した時、初めて「ブログを書く」という行為に意味が出てきた。

ヘルニアで座れなくなった人。体が動かなくなった人。キャリアが途絶えると思った人。そういう人たちが「あ、自分だけじゃない」と思える何かを書きたい。あるいは、「こんな選択肢もあるんだ」と思える何かを作りたい。

もちろん、これは理想論に聞こえるかもしれない。でも、「稼ぐこと」だけを目標にしていた時の僕よりは、今の方がよほど前に進める気力が湧いている。

医者には「仕事のストレスが今の苦痛をさらに悪化させる」と言われた。では、ストレスではなく「誰かの役に立つことをしたい」という想いで動いたら、どうなるのか。

実験的に、やってみている。毎日、音声入力で想いを吐き出す。AIに手伝ってもらいながら、それを文章にする。寝ながら、ゴロゴロしながら、できる範囲で。

それは「稼ぐ」わけではない。今は、赤字生活だ。でも、ゼロではない。何かを形にしている。その積み重ねが、いつか「誰かの一行」になるかもしれない。

まとめ:「できていない自分」を責めなくていい

最後に、これだけは言いたい。

病気や怪我で「稼げない自分」になったとしても、別に、その自分を責める必要はない。世の中の圧力は、そうしろと言うかもしれない。でも、体が止めてきた時点で、その圧力から逃げる正当性がある。

「男は稼ぐべき」という価値観は、確かに僕たちの中に深くある。でも、それは絶対ではない。その価値観を支えていた前提——つまり「ずっと座っていられる体」「ずっと働き続けられる体」——が崩れた時点で、新しい前提で人生を組み立て直していい。

むしろ、それは誰にでも起こるかもしれない。明日、誰もが「できない自分」になる可能性がある。その時に「だから僕は駄目だ」と思うのか、それとも「ではどうしよう」と考え直すのか。

その違いが、人生を二つに分けるような気がしている。

同じように困っている人へ。できていない自分を責めないでほしい。代わりに、「今、自分にできることは何か」に目を向けてほしい。座れなくても、喋ることができたら、それでいい。歩けなくても、考えることができたら、それでいい。

ゼロとイチの差は大きい。今の時代、その「イチ」を作る道具は、きっと近くにある。


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